北チョウセン拉致問題について

TIME(歴史)

 解決から遠ざかってしまった感があったから、予見どおりではあったが、とうとう拉致被害者家族連絡会(家族会)初代代表が亡くなってしまった。

 映画のように特殊部隊を潜入させて取り戻す、といったことは容易ではないし、難しい問題ではあると思うが、果たして仕方がないことなのだろうか。

 手元にある小冊子には『まさに正念場』、『オールジャパンの体制を強化』、『あらゆるチャンスを逃さない決意』と勇ましい言葉が並んでいるが、その割には……と言いたくもなる。

 今後も事態は変わらず、関係者が次々亡くなっていく……。

 まさかその後で国交正常化とかしないだろうね。

 一応、2014年には日朝間の協議が5回行われて、少しは希望があった。
 制裁解除をちらつかせながら協議を繰り返していたが、アプローチとしては最善に近かったように思う。
 だが、頓挫した。
 2016年の核実験およびミサイル発射以降、断絶状態になった。

 国際社会と連携を強めて制裁もしたが、国際社会の関心は「核・ミサイル問題 > 拉致問題」。益々拉致問題を核・ミサイル問題と切り離して対応することが難しくなった。

 チャイナの国力が上がったことも関係して、主導権も失ってしまった。

 昨今は拉致問題に限らず、何をするにもやたら国際社会、国際社会という。

 しかし、国際社会は不安定化し続けている。シンプルな問題を複雑化させてしまったり、動きが遅くなることもある。

 アメリカに頼って、チャイナに頼って、……。

 しかし、アメリカは迷走中。
 今後、国際社会におけるチャイナの影響力が一層強まって、国際ルールがあらぬ方向に変質していく可能性もある。
 それでも国際ルール遵守と言い続けるのだろうか。

 6ヶ国協議ですらうまくいかず北チョウセンは核保有国。

 二国間の問題を多国間の問題に拡げることがプラスに働くとは限らない。

 もっとも拉致問題の解決が難しいのは、最初の10年20年のせい。初動が遅いどころではない。

  •  1977、1978、1980、1983年 拉致事案の発生
  •  1991年- 機会あるごとに北朝鮮に対して拉致問題を提起。北朝鮮側は頑なに否定
  •  1997年 家族会結成

 この間、事件についてはろくに知らなかった。報道もほとんどなかったんじゃないかな。
 1970年代後半-1980年代前半といったら、私も生まれているわけだし、自分だって拉致される可能性もあったのか、と考えると……まあ、ないか。

 失踪場所は、新潟、石川、福井、兵庫、鳥取、……。主に日本海側。

 日本国内に手引きする人がいないと無理だろう。

 朝鮮人工作員(スパイみたいなもの)を日本人に仕立てるための教育係として拉致したなどと言われているが、その後、どれ程の工作員が日本人になりすまして工作活動を行ったのだろうか。

 今はどうなのだろう。

  •  Q 『拉致問題の解決のために、私たち国民に何ができるのでしょうか?』
  •  A 『……国民一人ひとりから、拉致は決して許さない、そして一日も早く全ての拉致被害者を取り戻すという強い決意が表明されていることは、この問題の解決に大きな力となります。』

 ちょっと何が言いたいのかよく分からない。

 生存情報はじめ分からないことが依然として多い。

 拉致の可能性を排除できない事案 約880名。
 本当だとしたら国家防衛できていなかったということだから大問題。それが長らく問題とならなかったのは問題大。

 2002年、2004年に時の首相が訪朝して拉致被害者・家族の帰国が実現しているが、残念ながら当時よりも解決は難しくなっている。

 経済支援をちらつかせながら協議するというのは賛同しがたいし、その金額が結構な額だと知れば、益々賛同できる国民は少なくなる。

 経済支援したら、核・ミサイル開発に流用される。

 北方領土の問題も似ているが、拉致問題はもうタイム・オーバー。

 押し掛けるしか解決手段はなさそうだ。

 まだ終わったわけではないが、現内閣の『最重要・最優先課題』という文言が何だか空しい。

 ※ 拉致問題のHP(www.rachi.go.jp/

 

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ふシゼン
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