【皇居周辺】 皇居東御苑(江戸城跡) ふらり立ち寄り

JAPAN(日本)

 秋晴れ。
 ドコへ行く?
 どうする?

 どうする
 どうする

 導かれるように
 大手門にて手荷物検査。

 皇居東御苑は江戸城本丸跡。
 + 二の丸 + 三の丸の一部。
 大手門は江戸城正門。最寄の駅は大手町。

 季節によって閉園時間が1-2時間変わるが、ほぼ年中開いている。
 休園日は、基本的には、月曜日・金曜日(休日の場合開園)、年末年始。
 詳しくは宮内庁HP(www.kunaicho.go.jp/)へ。

 いざ入城。

 桝形に鯱。

 大手休憩所(売店)。
 テャーッ。奥は皇宮警察の道場。

 三の丸尚蔵館(shozokan.nich.go.jp/)は、建て替え工事で休館中だった。
 一部は既に完成していて、11月3日(もうまもなく)、開館予定。全面開館は令和8(2026)年度予定。

 同心番所を見て
 百人番所がある広場へ。
  ※ 番所:番人(見張り役)の詰所(つめしょ)。guardhouse

 石垣は精巧な巨石積み。

 百人番所

 『甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。』

 広場真向かいにイチョウの木。その右脇の苑路は二の丸庭園方面。

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本丸

 広場の奥の苑路が本丸方面。
 中之門跡、大番所、
 坂を上る。

 中雀門跡、果樹古品種園。

 大芝生へ一直線
と行きたいところだが、
 富士見櫓(やぐら)へ。

 三重櫓。中には入れない。
 江戸時代の大半、天守の役割を果たしたとされる。
 『品川の海や富士山が眺められたと言われています。』
  富士山は赤坂方向

 松の大廊下跡へ---

 オレがオマエを討つっ
 キラーッ

 時は元禄14年(1701年)、「忠臣蔵」の一舞台。
 浅野内匠頭(たくみのかみ)即日切腹。
 当時の将軍は徳川綱吉。

 あわれみとは何ぞや---

 広々とした大芝生は本丸御殿跡。奥に天守台が見える。

 今はなき天守閣。
 江戸時代初期(徳川家康、秀忠、家光)、『本丸に3度、天守が築かれました』。
 3度目(寛永期)の天守の復元模型が、本丸休憩所(売店)の隣で見られる。

 『日本一高層の天守』。5層。
 天守台(石垣)含めると高さ60m弱。『本丸の標高を入れると約80m』。
  ※ 現存および復元されている天守閣の高さ(天守台含む)1位は大阪城(大坂城)。約55m

 1657年、明暦の大火に遭い、焼失。
 その後、再建されなかった。
 (上述の)富士見櫓が焼失後に再建されて天守閣の代わりになった。
 結局、江戸城は家康以降攻められることなく、幕末においても未遂(無血開城)で済んだ。

 ごろん
 へいわ
 ここは
 いまは

 大嘗祭の大嘗宮が建てられたところが本丸の大芝生。
  ※ 令和の大嘗祭 2019年11月
    平成の大嘗祭 1990年11月
    昭和、大正は京都御苑、明治は皇居・吹上御苑にて

 それから4年。

 天守台へ急登。
 フーッ。
 ベンチで休憩。
 殿様気分。

 物事白黒
 迷うなら
 仲良く
 喧嘩両成敗

 天守台から大芝生

 大芝生=本丸御殿跡は手前から
 ・ 大奥
   将軍の家族、女中たちの生活の場。
 ・ 中奥
   将軍の生活の場。
 ・ 表
   幕府の政庁。『幕府諸役人の執務の場』。
 昔の面影は感じられない。

 天守台から反対側(裏)は北の丸[公園]。日本武道館の屋根が見える。

 天守台から桃華楽堂

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二の丸

 本丸から急坂を下って二の丸。汐見坂、白鳥濠。
 江戸城築城の頃は、この近くまで海(日比谷入江)が入り込んでいたとのこと。

 汐見坂下にあった苑内図

右上=天守台、中上=本丸、左上=富士見櫓、中左=百人番所、左下=大手門

 大手門の他、天守台裏の北桔橋はねばし門、梅林坂下の平川門が出入門。北桔橋門、平川門の最寄の駅は竹橋。

 都道府県の木
  32樹種。東京都はイチョウ。

 諏訪の茶屋
  吹上御苑から移築。

 二の丸庭園
  菖蒲田があるが、今回は季節はずれ。見頃は6月。
  コウホネ(ヒメコウホネ)、アサザの黄色い花がまだ少し残っていた。

後方のタワーは千代田区役所のビル

 二の丸雑木林
  東京都心の雑木林


 苑内始終外国人が多かった。
 浅草、日本橋、築地、……。

 江戸城跡は東京随一の名所。

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ふシゼン
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